三陸の海をにぎる、
めくるめく、多彩なすしの風景


まだ夜が開け切らぬ三陸の海。煌々と照明を灯した漁船が次々と宮古湾へと入ってくる。夜半から沖合で操業していた定置網漁船だ。船が目指すのは湾の最奥部で構える宮古市魚市場。岸壁の上ではすでに市場関係者が忙しく立ち回り、水揚げの準備が進められている。船が着岸すると岸壁周辺は一気に活気付く。船倉から水揚げされた大量の魚は、市場関係者の阿吽の呼吸であっという間にさばかれ、魚市場の建屋の下に整然と並んでいく。リンリンと鳴る鐘の音はセリが始まる合図。目利き自慢の競り人たちが、多種多様で大きさも姿も異なる魚たちを取り囲む。セリが終わると、魚はあっという間に梱包され、魚市場の外へ。目覚めたばかりの宮古の町へと届けられていく。

 


暖かな黒潮と冷たい親潮が三陸沖で出会い、大量のプランクトンが発生する。この豊饒なる“潮目”に多種多様な魚が集まり、一帯の海は魚たちの楽園となる。三陸が世界三大漁場のひとつと謳われてきた理由はここにある。宮古の水産業は、こうした三陸の豊かさの上に成り立っている。定置網、底引網、延縄、養殖と多様な漁業が営まれ、鮮度の高い魚が毎日水揚げされている。四季折々の旬の魚は今日も地元はもちろん、日本中の食卓へと届けられ、三陸の海の豊かさを語り継いでいる。

 


宮古のすしも三陸の豊かさから生まれている。魚の質の良さもさることながら、特筆すべきは魚市場とすし屋までの距離だ。宮古港に構える魚市場からすし屋が点在する市内まで、その時間はわずか10分程度。すし屋に届いた魚はいずれも、今も海のなかで勢いよく泳いでいるような姿で瑞々しく輝く。宮古のすし職人たちは、魚がまとったこの鮮烈なまでの鮮度を当たり前のこととして捉えている。職人たちが宮古のすしを語るとき、いつも出てくるのは、「地元の魚」という言葉だ。「揚がったばかりの地元の魚を使ってすしを握るのが当たり前、この町のすしはそこに尽きるのだ」と、すし職人たちは白衣をまとった胸を張る。

 


「江戸前ずし」の言葉をひもとくと、江戸前の魚、つまり現在の東京湾の魚をネタに使ったことがその名の起源と記されている。これはすしの本質を語る話でもある。どこかの遠い海から魚を運んでくるのではなく、目の前の海から揚がったばかりの魚ですしをにぎる。そういう意味では宮古のすし職人たちの仕事は、江戸の町に生まれたすしの王道を行くものだ。

昭和中期から後期にかけてが、宮古のすし業界の隆盛期だった。当時の市内には30軒以上ものすし屋が点在し、大いに賑わった。現在、宮古市内のすし屋は約10軒程度。少し寂しくはなったが、三陸沿岸の町ではトップクラスの密度。三陸のすしの聖地としての歴史を今日も刻んでいる。


昭和20〜30年代にかけての宮古港はサンマ漁の出港基地として賑わった。最盛期には全国から500隻以上もの漁船が集まり、その活気ある風景は宮古の秋の風物詩だった。

 


宮古のすしの世界の魅力はネタの鮮度や職人の技だけではない。「すし」を中心に置きながらも多彩な店の姿である。江戸前ずしの世界を存分に感じさせる粋な老舗にはじまり、居酒屋スタイルで呑兵衛に愛されるすしをにぎる店、はたまた一夜一組限定といったニューウェーブ的な営業スタイルを掲げる個性的な店もある。もちろん、味の違いも一筋縄ではいかない。たとえば、宮古のすしでは定番の穴子ひとつとっても千差万別。宮古の海で獲れた同じ素材を使っているとは信じられないほどの味覚の変化を楽しめる。ひとことで「宮古のすし」と言っても、店構え、雰囲気、味覚まで、その多様さ、多彩さには驚くばかりだ。三陸宮古にはめくるめくすし屋の風景が広がっている。さあ今宵はどの店の暖簾をくぐろうか。

 

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