「よし寿司」の佐々木良男氏
「すしを握り続けて」
それだけの職人人生

宮古のすしの世界を長年にわたって牽引してきた「よし寿司」の佐々木良男氏。10代で、すし職人を志して以来、すしを握り続ける日々は、傘寿(80歳)を迎えた今日まで変わることなく続いてきた。宮古市民の誰からも「よし寿司の親方」と愛される佐々木さんの存在は、この町で育まれてきた「すしの風景」のひとつと言えるだろう。佐々木氏が歩んできた職人としての日々を振り返ることで垣間見える、すしとともに歩んできた一人の人生と、その胸に秘められた矜持。今日もツケ場に立ち、鮮やかな手さばきですしを握る佐々木親方の記憶から、宮古のすし職人の風景を遠望してみる。


中学卒業と同時に静岡へ

私はね、昭和19年の生まれでね、中学を出てすぐに就職したんですよ。6人兄弟だったからね。しかも双子で。当然、親は経済的に大変なわけですよ。だから進学から集団就職の方に切り替えてね。ただ、すぐにすし職人の道に入ったわけじゃないんですよ。宮古の貧乏人のせがれがね、すしなんて食べられる時代じゃなかったですよ。「すし」って言われても、その頃の俺は運動会で食べる太巻きぐらいしか知らなかったんですよ。だからすし職人になるなんて想像もできませんでしたよ。ただ、悪ガキ仲間の一人が突然、すし屋に就職するって言い出して、それがとても魅力的に聞こえて、「俺もすし屋に行きてえ」って思った時はありましたね。それでも結局は父親から「お前はここに行け」って言われて、静岡にある老舗の呉服屋に就職したんですよ。大きな呉服屋さんでね、そこに3年間ほどいたんですが、旦那さんや女将さんから帳簿の付け方や布団の綿入れなんかを教えてもらってね、よくしてもらいましたよ。


すし職人への目覚め

すしとの出会いはね、呉服屋で勤めていたときに番頭さんに地元のすし屋に連れて行ってもらったときだったね。初めての「握り」でね、マグロなんか食ったときは、こんな美味いものがあるんだなって驚いて感動しましたよ。そんなこともあってか、ある時、呉服屋に出入りしている問屋さんにこっそりと「東京のすし屋を世話してくれねえですか?」って聞いてみたんだよね。当時はすし職人になりたいって思いもあったんだけど、10代の自分は東京に出たいなって思ったんだよねえ。何とかして東京さ行きてえなあって。そしたらその問屋さんが「日本橋にいいすし屋があるからそこはどうだ?」って言ってくれたんですよ。ただね、「得意先の従業員を辞めさせるわけにはいかねえから他言無用だ」って付け加えられてね。確かにそれもそうだよなと思ったから、そこは一旦引き下がることにしました。でもやっぱり諦めきれないから駅の売店でスポーツ新聞買ってさ、すし屋の求人広告を探して手紙を送ったんですよね。3軒に送ったかな。そしたらちゃんと返事もらってね、それで世田谷にある芸能人も贔屓にしているすし屋に行くことになったんですよ。


東京での修行時代のはじまり

世田谷のすし屋では親方と若い板さんが2人いてね。私はその下に入ったんだけど、当時の修行って下働きだから、当然、握らせてもらえるわけにはいかないですよ。2年経ってようやく海苔巻きを教えてもらえるって感じで、兄弟子も厳しかったなあ。ただね、親方の息子の板長さんがすごく優しい人で「お前は今まで来た若い者で一番働き者だ」って可愛がってくれてね。ときどき、シャリをね、一人前ぐらいまとめてくれて、そこにネタを添えてくれて、「部屋に上がったらこれで握りの練習をしろ」なんて言ってくれましたよ。当時の私は決められた時間の1時間以上前に出勤して、出前の皿を下げに回ったりして段取りしていましたから見てくれる人は見てくれるんだなと思いましたよ。


すし職人への迷い

世田谷のすし屋には3年ぐらいいたんですが、やっぱりね、それぐらいの経験ではすし職人としてやっていくには自信が持てなくて悩んでいたんですよ。それでね、ふと思い立って神奈川県の三崎に行ってみたんですよ。宮古時代の同級生が船に乗っていて、手紙なんかでは景気がいい話がいっぱい書いてあったから、船乗りに転向する道もあるのかななんて思っちゃったんだよね。当時、三崎には大洋漁業っていう大きな会社があって、そこに就職の話を聞きにいったんだけど事務の方がいい人でね、「あなたは学歴もないから船に乗ってもずっと下っ端だよ。よほど努力しないと高校・大学を出た連中にはかなわないよ。だったらこれまで通り頑張ってすし職人としての修行をした方がいいんじゃないか」って諭してくれたんだよね。そう言われた私の姿が、がっかりして見えたのかもしれませんが、帰るときには「ここは僕がよく行くすし屋だから食べて帰りなさい。お金は払わなくていいから」って三崎のすし屋を教えてくれたんですよ。私はその言葉通りにすし屋に行って、一人前の握りを食べてね。もちろん美味かったし、自分はいい人と巡り会うことができたんだな、人の出会いに恵まれているなってしみじみ感じてね、やっぱり諦めずにすし職人を目指そうって思い直していましたよ。


川崎のすし屋で再出発

世田谷のすし屋の次に行ったのは川崎の「都寿司」という店でした。紹介してくれたのは「山新会(山新鮨調理師紹介所)」というすし職人を斡旋する浅草の会社でね、そこを訪ねたら「ここで修行したら立派な職人になれる」って勧められたんです。ただ、実際に都寿司に行ってみるとね、商店街の外れにあって、テーブル席も2席あるだけのちっちゃな店でね、ダジャレじゃないけど「おれもいよいよ都落ちか」ってがっかりしましたよね。でも、すぐに辞めたら次は紹介してもらえないからここでまずは辛抱しようって飛び込みましたよ。親方はまだ30代でしたけど恰幅が良くてね。すしだけじゃなく和食もできる腕の良い職人でしたよ。ここでは6年半だから27、28歳まで修行しましたよ。この間にちっちゃな店がどんどん大きくなって、3回も改装して最後は3階建てになってね、駅のそばにも支店を作ったりして忙しかったものですよ。その頃のすし屋というのはね、一釜が米の二升炊きで、二釜出ればやっていけるって言われていたんです。ところがうちでは七つも八つも出てね。土日なんかは十釜出るぐらいの忙しさだから一日中握りっぱなしで、仕事の仕方は都寿司で鍛えられましたよね。


転機となった「すしコンテスト」

26歳のときだったかな。神奈川県で「すしコンテスト」というものがあってね。親方が「佐々木、お前が出ろ」っていうわけですよ。私なんかより綺麗なすしを握る先輩もいたから、「これは当て馬だな」って思いましたよね。しかも職人歴10年以上の経験者が出る上級クラスでの出場でしたからね。私はそんな経験もないから最初は中級に出ようとしましたが、そしたら親方が「バカヤロー、うちから出るなら上級だ」って叫ぶものだからしょうがないって出たら、なんとなんと優勝してまったんです。握り方はもちろん、衛生管理やネタの切り方といった仕事の仕方を審査員全員がくまなく審査するわけですが、自分は一番の若手だし、まさか優勝できるなんて考えてもいないから緊張もせずにできたんでしょうね。ライバルの職人が包丁で指を切ってしまったりして運が良かったのはもちろんですが、やっぱり忙しい店で毎日ツケ場に立つことで鍛えられたんだと思いますよ。まあ、今となってはただの自慢話ですがね(笑)。


師匠が掛けてくれた優しい言葉

都寿司で修行して6年目を迎えた頃、弟から「宮古ですし屋をやらないか?」って連絡が来たんですよね。「すしコンテスト」で優勝したことが宮古の親兄弟の耳に届いたことで、弟が意気込んだんでしょうけど、私は30歳までは絶対に修行を続けようと思っていたし、金も貯めてないから無理だよと断ったんですよ。そしたら親父が「中学を出て就職した良男には何もしてやることができなかった。自分の退職金を使っていいから店をやれ」なんて言い出して。しかも、その話を自分の師匠に相談したら「よし行け。もし駄目だったらまた返ってくればいいから。うちじゃなくても、もっと給料が高いとこ世話してやるから」って送り出してくれたんです。川崎から宮古に弟が探してくれた店を見に行った日のことはよく覚えていますよ。仕事が終わったその足で、白衣の上にジャンパーを羽織るだけで大急ぎで上野駅に駆けつけて。当時は新幹線もなかったから東北に向かう夜行列車に飛び乗ってね。気持ち良く送り出してくれた都寿司の師匠の優しい言葉が沁みましたよ。


宮古に帰郷し、よし寿司を開店

私が宮古に帰ってきたのは昭和47年のときでした。蛇の目寿司さんをはじめ、当時の宮古にはすでに江戸前のすしを握る店が何軒かありました。あと、スナックや飲み屋さんで飲んだ後に少しだけつまむような小さなすし屋が横丁なんかに結構あったんですよね。いわゆる江戸前すし屋の構えではなくてね、立ち飲み屋のような雰囲気で夜中までやっているような店でしたね。私が宮古に戻ってきて開いたのはカウンター7、8人、テーブルが3つの店でしたね。当時の私からしたら家賃が高くて、どうなるものかって不安も覚えましたが独身でしたからね、いざとなったときはどうにでもなれって気持ちでしたね。でも実際に蓋を開けてみると、宮古にはすしを食べてくれる人がこんなにいるんだって驚きの開店でしたよ。兄弟知人、いろんな人が宣伝してくれたからでしょうか、話題にもなって流行りましたよ。開店から2ヶ月間は師匠の紹介で東京から職人さんが手伝いに来てくれてね、開店時期を乗り切ったって感じでした。それ以降は、船乗りだった弟が船を降りてすし職人として手伝ってくれるようになってふたりでやるようになりましたね。数年たてば職人志望の若い人も入ってくるようになってね、一番盛んな時期には従業員が18人もいましたよ。その時期には宮古と盛岡に回転ずしを出したときもあったんですよ。これは10年近くやりましたが、全国チェーンの回転ずしが盛岡にたくさん来ることになって、すぱっと辞めましたよ。男は見栄っ張りだから店を辞めるのは嫌なんですが、うちの家内が「ここが潮時だ」って言ってくれてね。今思えば辞めて、家内の言葉を信じて良かったと思いますよ。そんな感じでいろいろとありましたけど、幸運なことにずっと寿司屋を続けてこれましたね。


よし寿司が開店した頃の宮古の街並み。宮古駅前の末広町商店街には活気があふれていた。(宮古市勢要覧 昭和45年版より)

宮古ですしを握るとは

宮古ですし屋が一番多かったのは昭和50年代で、当時は宮古にもすし屋の組合があって35軒もの店が加盟していたんです。当時は浜(漁業)も盛況でね、町も賑わってすし屋も忙しい時代だったね。今は宮古のすし屋っていうと10軒ほどになりましたが、すし屋で賑わった時代があったからか、今でもこの町の人はやっぱりすしが好きだなって感じますね。とくに宮古の人は魚を食べ慣れているせいか、「生」が好きなんですよね。お客さんはみんな「生」が食べたい食べたいっていうから、たとえば一人前の握りの場合、海苔巻きを減らして握りを追加するようにしているんです。エビなんかも蒸しエビを使わないで生のエビを使うのが宮古流でしょうね。あとは宮古って海の町だから、やっぱり地元の海で獲れた新鮮な魚を使って握るようにしていますよ。最近は不漁続きだからいい魚を集めるのが難しいのですが、地元の魚で握るすしが宮古らしいすしの姿なんだろうって思いますし、何より一番美味しいって喜ばれますよ。それは宮古のすし職人共通の思いで、だからなのか宮古の職人は魚の鮮度へのこだわりは強いなって感じますよ。もちろん、すし屋なんだから日本中の職人が鮮度にはこだわっているんでしょうが、豊洲から取り寄せるっていうんじゃなくて、あくまで地元の海の魚を使い続けているせいか、魚への思い入れというのかな、そのあたりが宮古のすし屋はやっぱり違うなって思うこともありますよね。たとえば、魚をちょっと置く場合でも必ず氷の上におくとかね。本当にわずかな差なんでしょうけどね、宮古の職人は魚の鮮度に対する感覚が鋭いような気がしますよね。地元の魚を喜ぶのは地元の人だけじゃありませんよ。最近は旅の人も多いからね。ドンコとか、宮古の地魚を握ってあげてね、「宮古の人は昔からこの地魚が好きでねえ、こうやって肝を乗せて、あえて醤油はかけないで食べるんだよ」なんて話したりして喜ばれてますよ。


宮古で寿司を握り続けて

この町ですしを握るって言っても、何か特別なことをしてきたという気持ちはありませんよ。ただ、ずっとすしを握ってきたというだけですから。いいネタを使って一生懸命握るので美味しく食べてもらえたら嬉しいってだけの話ですよ。ただね、うちの店のおすすめは実は秘密なんです。分け隔てなく食べて欲しいからね(笑)。でも、あえて言うならアナゴかな。もちろんアナゴは宮古湾で獲れたものですよ。ただね、それを美味しくつくるって大変なんですよ。皮を磨いてぬめりをとって、しかもコトコト何時間も煮込んでね。ツメ(タレ)をこさえなきゃだし。やっぱりね、きちんと手をかければ美味しくなるものだからね。そういう地元の美味しいものを食べて欲しいですよ。もう、この年になったので、四六時中ツケ場に立つってことは少なくなりましたが、忙しいときは助っ人で入るんですよ。そしたらね、板長さんが「親父さん、まだまだいけますね」なんて言ってくれるわけ。うちの板長さん、普段は無口なんだけどお世辞なのかね、それともこっちをまだまだ働かそうって魂胆かわからないんだけど(笑)、やっぱりね、ツケ場に立ってお客さんが喜んでくれるすしを握るのはいいものだなって感じますよ。あとはね、うちの女将、家内には感謝感謝ですよ。働き者だし、借金しても私には心配させないようにって、支払いの残りを言うこともないんです。ずっと仕事だけに専念させてくれましたよ。家内は本当にありがたいものですよ。宮古で店を続けたことで少しは親孝行ができたのも良かったですね。親父は郵便局に勤めていましたが給料がよいわけでもなかったし、お袋も近所の農家の手伝いをしたりしながら6人の子供を育ててね、やっぱり苦労していましたよ。それがあるとき、中学校しか出てないいたずら坊主が帰ってきてね、すし屋を開くとかなんとか始まってね、相当心配したと思うんですよ。それが開店して何年か経つとね、ご近所さんの人たちから「よし寿司すごいね、すごいね。息子さん、立派になったねえ」なんて言ってもらったようですよ。お袋はたぶん嬉しかったんじゃないかなあ。これが本当の親孝行なのかわかりませんが店を開いて一番良かったことだなって思っていますよ。それでもね、ときどきね、昔を思い出してさ、もし、すし屋になってなかったら何になっただろうななんて、ぼんやりと考える時があるんですよ。ほかにも何かやれたかなあって。でも最後には、やっぱり自分はずっと、すし握っていたんだろうな、すし屋やっているんだろうなと思えるから、私の人生はこれで良かったんでしょうね。私の長い長い思い出話はこれでおしまいですね。

(2024年11月29日宮古市よし寿司にて収録)

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